ぷち ぽえむ


 

 

 

■MIDI『古蘭よ』について■

【作品の出典】
○『久坂葉子詩集』 昭和54年六興出版 の52P〜53Pに渡る譜面をシーケンサーに打ち込みMIDI化したもの。なお、この譜面は小 節の記述がなく、作成に当たっては推測による部分が多いことをあらかじめお断りしておきます。
○上記により、実際久坂葉子の手で演奏された『古蘭よ』とは相違している可能性もありますが、私の感覚では、かなりの部分において正しいと思います。
○この作品は彼女の最後の年に書かれた長詩『古蘭よ』に準拠しているのはご存知の通りです。(ご要望があればこの詩もUPいたします )

【作品を聴くに当たって 】
○作品を聴くには、下の「久坂葉子MIDI」窓の上で左クリックし、曲を選択してください。
○辛く暗い作品です。貴方が精神的に安定している時期、お聴きになることをお勧めします。
○あくまでも久坂葉子のモニュメント及びトピックメイキングの意味で公開しました。したがって彼女の著作権を侵害する意図は全くありませんので、関係者の方等、この公開により不都合がある場合は直ちにメールにてご連絡下さい。速やかに配信を中止いたします。
○最後に、久坂葉子のことを若い世代をはじめ、皆様に知っていただきたく思っています。
 特に神戸の地域の方々。いずれ立派な久坂葉子のサイトを完成させて頂きたく思います。

久坂葉子略歴
昭和6年3月27日神戸で生まれる。 本名 川崎澄子
昭和18年4月、神戸山手高女入学 少女時代からピアノは堪能であった、相愛女専音楽部ピアノ課に一時籍があったほど。昭和23年3月、神戸山手高女卒業。
昭和24年(18歳)、喫茶店でアルバイトのかたわら、神戸のVIKINGに参加、富士正晴と出会う。
VIKINGに発表した「ドミノのお告げ」が、第23回芥川賞候補となる。
昭和26年(20歳)、VIKINGを脱退、化粧品会社の広告部嘱託、新日本放送嘱託となる。昭和27年(21歳)、化粧品会社、放送局をやめ、自殺未遂の後、VIKINGに復帰、現代演劇研究所や同人誌VILLON創刊の活動に参加。
同年(21歳)12月31日、阪急六甲駅で三宮発特急電車に飛び込み自殺。

参考書籍
「久坂葉子全集」
佐藤和夫編
鼎書房 平成15年 入手可
「贋 久坂葉子伝」
富士正晴著
冬樹社 昭和54年 廃
「新版 久坂葉子作品集」
久坂葉子
構想社 昭和55年 入手可
「久坂葉子作品集 女」
久坂葉子
六興出版 昭和53年 廃
「久坂葉子の手紙」
久坂葉子
六興出版 昭和53年 廃
「久坂葉子詩集」
久坂葉子
六興出版 昭和53年 廃

序章

まず、最初に申し上げたいことがある、
私は音楽についてはかなり独自で勉強もしたし、様々な音楽を聴いてきたつもりであり、この点においてはかなり自信があるが、専門的な文学の話はかなり 不得手である。ましてや、本邦神戸を中心に行われてきた、いわゆる”VIKING”の文学集団の歴史には何も言及できる知識も立場もない、神戸という所も、震災前に2回ほど久坂葉子の取材で行ったことはあるが、震災後の現状についてはあまり把握していない。

私が何故彼女のことを覚えているか?それは故富士正晴氏の「贋 久坂葉子伝」の影響に他ならない。この過去と現在の微妙な時間感覚に立ち、非常に重苦しい小説は、読めば読むほど新たな発見があり、私の人生の転機には必ず再読することにしている。久坂葉子が与えてくれた「原罪」は、自由奔放に人生を謳歌する我々に重大な警鐘を鳴らし続けるだろう。

もう一つ言うと、久坂葉子のサイトは、本来神戸のウェブデザイナーが製作すべきである。
いつか素晴らしい久坂葉子研究サイトが必ず誕生するものと信じ、また、神戸に久坂葉子文学館が生まれることを願いつつ、それまでのいわば「つなぎ」として、このページでは少しずつ彼女の悲しみに降りていくこととする。


れもん
れもん れもん
れもんのにおいは
静止した影のように
けだかいから
過去に罪を背負わされた
女の嘆きを知っている。
(れもん)


れもん・・それは彼女がいちばん大切にしていた女性のプライドや、その愛の形かもしれない。
自殺未遂の際、れもんを持ってきて病室を訪れたK青年は、彼女の支えであり、かつ、苦しみの根源でもあった。このK青年と、OL時代に不倫関係にあった男、富士正晴氏の知り合いの男S氏この3人の周りで、彼女の原罪意識が形作られていった。
また、彼女は神戸のいわゆる”お嬢様”であったが、戦後、傾いていく”家”の中で、気丈にもそれを支えていかねばならなかったのである---若干21歳で。

わがこひびとよ われしなば
しろききぬにて まきたまへ
わがむなもとの きぬの上(へ)に
あかきはなおば のせたまへ
こひのしるしの あかきはな
つみなるこひの しるしにと

わがこひびとよ われしなば
あかきはなのみ あいせかし

(わがこひびとよ)


山手高女時代
久坂葉子は名門の家に生まれ、幼いころからお嬢様で育てられたが、富士正晴は彼女のことを
「名門・貴族の家に生まれ育ったくせに、ひどく庶民的なところがある女であり、人の悪口や泣き言をいわず、また、声はアルトで、聞く人をおだやかな気分にさせる声だった」と書いている。
だが、彼女はそれだけの女性ではなく、自立心も強く、かといって寛容であり、人に物を頼まれるといやと言えない性格だったようである。
彼女は、山手高女でも成績優秀であったが、以下のようなエピソードが知られている。

・・勤続十何年ということで教頭職についていた音楽の教師が、戦後の民主主義教育における新学科・公民(倫理)を教えることとなった。が、彼女はもともと、この音楽教師が音楽的センスを全く持たず、ピアノをまるでタイプライターを打つようにガンガン鳴らすことを心から軽蔑していたので、この教師の教える倫理など、久坂にとっては滑稽でしかなかった。久坂は音楽的センスに恵まれ、ピアノも堪能だったのである。
その音楽教師兼教頭は、倫理の授業で、黒板に善悪や意識や行動だとかいう文字を書き、それを説明するのをいつも馬鹿げたことだとして、久坂はノートをとらずにぼんやりしていたのだが、ある日、これから二十分で自分の行為を善悪の理性で反省し、悪だと思った点を紙に書いて提出せよ、それを試験のかわりにするといい、答案用紙を配りはじめたのだった。
それに対して、「何のためにそんなことをするのか」と彼女は抗議し、自己反省は大切だと主張する教師に、反省は自分だけでやるもので、それを試験がわりにするとはもってのほかだときめつけると、相手は怒りののしったのだ。「悪趣味ですね、人の悪なる行為をききたいとは・・・・・・」と涙声で久坂はいい、もし自分が淫売行為をしていたとすると、あなたは答案用紙に可か不可をつけるだろうが、わたしの心理も行為の動機も知らないあなたが、ただ、不可とつけるのは実に無責任だとうったえると、彼は非常な怒りでチョークを投げつけ、このことは一時おあずけだというような曖昧な言葉をのこして出て行ったのである。
この事件はすぐに学校中にひろがり、久坂葉子は不良少女だということになって、生徒たちの彼女を見る目はすっかり変わってしまう。久坂は学校を休み続け、山手高女を中途退学し、相愛女専に移るが、そこも中退したのだった・・・     
引用: 「竹林の隠者」(久坂葉子) 大川公一著

しかし、久坂は名門の出身で、山手高女に家が多くの寄付をしていたため、卒業証書が自宅に送られてきたのである。この卒業証書を見た時の彼女の複雑な心境は察するに余りある。家庭の
事情で退学した生徒には何も送られないのに、何と言う不公平なことだと考えたのである。

富士正晴と久坂葉子
当時、関西の文壇は戦争から復員してきた作家、富士正晴の主催するVIKINGが活動していた。豪放磊落な感のある富士正晴を中心に、島尾敏雄など参画していたこの集団に神戸から久坂葉子も参加したのである。前述の学校関係のいざこざなどで自殺未遂を起こしていった久坂にとって、粗野ではあるが慈父のごとき富士は、彼女の唯一の理解者として信頼するに値する人格であった。富士も久坂葉子の文才を見い出しており、久坂は実際に芥川賞の候補となったが、VIKINGの雰囲気に馴染むことが難しく、脱退を余儀なくされるのである。
久坂はVIKING脱退後、ラジオ局などに勤めるが、妻ある上司と恋に落ち(今で言う不倫か!)、彼の子供が欲しいとまで思うようになったが、相手は遊びのつもりだったため、久坂は3回目の自殺未遂を起こし、後遺症で結核を病むに至る。
これを見ていた富士正晴は、久坂を勇気づけようと、久坂との”贋の恋文”を交わすのであった。
元来、ユーモア感覚もあった富士は、久坂にユニークな恋文を送り続け、久坂もだんだん富士や周囲に対して心を開くようになっていった。この往復書簡が「久坂葉子の手紙」の中心を形成している。この時代に、そして久坂にとっても、”手紙”とは生きていくことそのものであった。写真として 残されている久坂の手紙は、筆書きの実に立派な書簡であり、その中にも若い女性の生き生きと した感性を感じ取れる。自分の似顔絵あり、漫画あり、詩がある。久坂の希望や夢を包み込む書簡は、久坂の重要な表現手段であったと言うことができよう。

富士の最大の功績の一つに、久坂葉子の書簡や作品を散逸させなかった点がある。それどころか、久坂の書簡を保管している家族や、過去の人として焚書しようとしていた久坂のかつての恋人とも積極的に会い、回収していった。富士がいなければ、久坂は本当に”小さい命はだれの頭にも残らない”(久坂葉子の遺書)状態になるところであった。今日久坂葉子の研究が出来るのも、富士の陰の努力『書簡争奪戦』が成功したことによるところが大きいのである。

唐辛子
・・うどんのどんぶりが運ばれて来た。汚いが、がらんと小広い飯屋だつた。めし、しる、うどん、そば、きつねうどん、たぬき、あんかけ、縦長の紙に書いて壁にはりつけてあるその値段書き。退屈そうに椅子に腰かけて、机の上に指先で何か同じことを書いている給仕女。汚れているくせに、憎さ気に太った猫がのそのそと歩いてゆく。久坂葉子が手をのばすと、尻目にかけず、猫は足を早めて(ママ)、調理場へ逃げこんで行つた。ラジオが雑音をたてる。薬味入れをあけると、彼女は葱をどつさりうどんの上に入れ、それから、唐辛子を真赤になるほどふりかけた。葱の緑と唐辛子の赤がうどんの白さの上で、太てぶてしい程美しかつた。ラジオは下手な漫才をやつているらしかつた。ひりひりとする唐辛子の味も好きだが、その鮮やかな色も好きだ。
〜中略〜
こうして、素うどんに、たつぷり葱と唐辛子をかけて二杯食べたんだつた。お連れは誰だつたか、その時、何を話していたか、それは忘れてる。覚えているのは、葱の緑、唐辛子の赤。南国的な激しいコントラスト。そうだ、その時も、わたしは琉球へ行きたいなと思つたんだ。
                                       「贋 久坂葉子伝」 富士正晴

琉球・・沖なわの歌をよく歌ってくれた「緑の島」は、久坂葉子の初めての男性だった。

戦後、”斜陽”と呼ばれた名家での閉塞感、自分自身の悩み、すべてを受け止めたのは、妻子あるプレイボーイに過ぎない男であった。久坂葉子は「幾度目かの最期」の中で、彼を「緑の島」と呼んでいる。しかし、久坂は最後までこの男への未練を断ち切ることができない。

・・「わたし、あなたの子供ほしいわ」と、甘ったれた声で久坂葉子は言った。そして、ベッドの鋼がピーンと鳴りひびくような勢いで半身を起こすと、鬼頭(仮名)の胸によりかかり、じっと情を含んだ目付きで鬼頭の顔を眺めた。
「あなたの子供を産んだら、奥様と別れて結婚して下さる?」
「あれより、先に産んだらね」
鬼頭は腹の底に怒りとせせら笑いをかくして、優しい声音で答えた。
〜中略〜
次の日、鬼頭は待合室でグラフ雑誌を眺めながら待っていた。医者が扉を開いて診察室から出て来て、煙草に火をつけ、鬼頭の椅子に坐った。
「どうだった?」
「ふん、もうしばらく寝させとく方が良いよ・・・・・君もあくどいな。あの女何だい。変な女だね。何の商売だ?」
「斜陽の子だ。チンピラ作家だ。けれど、とにかく文学賞候補にはなったんだからね」
「道理で大事にしやがると思った。いつも一人でこさせるじゃないか。お伴して来たなんてはじめてだな」
「もう麻酔さめてるんじゃないか」
「大丈夫。気にするな。聞えやせんよ」
「厄介な娘でなあ」
「君の子供がほしいんだと言ってたぜ。可哀そうに」・・
                                       「贋 久坂葉子伝」 富士正晴